九章[九章]次の朝、夜明けとともに森本は帰って行った。 帰り際に「梶さん、また、来てもいいですか」と念を押した。 僕は「待っていますよ」と言ってやると「次は命日でなく、日曜日に来ます。次は日曜日の夜から来ます」と言うので「どうぞ」と 返事をすると少年のような顔で白い歯を見せた。 僕は見送りながら、それでも森本がこれからの1ヶ月間、何事もなく元気に過ごす事ができればいいが、と心の中で願っていた。 落ち着き払ったようでもかなり起伏の激しい性格が垣間見られた。 職業のせいか緊張がある間は冷静のように見えても、緊張がとれるとその反動が大きいように僕には思えた。 その4週間後、森本はやって来た。 今回はビールとウィスキー、そしてお土産だと言って重箱を差し出した。 その中には煮物だの、フライだの、ヌタだのと精進料理が詰められていた。 それ以外にもにぎり飯が用意されていて驚いた。 「どうしたのですか」と尋ねる僕に「おふくろが用意してくれましてね、会社へ電話をして来て持って行けと言いました。 こんな事、始めてですよ」と言うので「お母さんは久江の死を知っているのですか」と尋ねると 「ああ、僕が話ました。あれでも気に病んでいたようで。久江は自殺だった、と言ったら顔色を変えて僕の膝にすがって、良ちゃんごめんね、 久ちゃんごめんねと言って泣き出して3日程寝込んでいました。そんなおふくろがかわいそうになって、 母さん、母さんが殺したのじゃないから、もういいよ。と言ってやったら半紙に小山久江の霊と書いて仏壇に貼って 毎日手を合わせているようです」と目を伏せて話した。 森本の母親はやはり、久江に何かしたのだろうか。 したとしても、もう30年近くも昔の事で時効ではないか。 森本もそれが原因で母親に当て付けのような人生を送ってきたのだから、もういいではないかと思った。 森本は「おふくろは久江が死ぬ半月前に電話をかけてきた時、今更何なの、みたいな応対をしましてね・・・。 久江はお母さんは私の事、今でも忌々しく思っているのね、と言いました。 僕は気にしなくていいよ、と言ったのですが、私があんな訳の判らない別れ方したからでしょ、と言いました。 君、変わったね、って言ったら『そうね、私、変わったでしょ』って投げやりな言い方をしてね・・・・・。 それで僕、何かあったの、って聞いたのです。 すると『別に』って答えたんです。 そんなやり取りをおふくろは聞いていて電話を切った後、僕にあんたは今でも久ちゃんには随分優しいのね。 私やみっちゃんにも1度くらいあんな風に言って欲しいわ、と嫌味を言ったものだから、今度も自分の態度に 原因があったと思ったらしいです」と一気にしゃべった。 森本は辛いだろうなとその時思った。 森本は「梶さん、まず乾杯しましょう」と言ったので「久江の事で収穫はありましたか」と聞くと 「おおいにありそうですよ。娘の和江さんに話したら、久江のタンスの中の帯の間にきれいに包装された平たい箱が挟まれてあって、 森本良一様、と宛書がしてあったそうです。和江さんは森本良一という名前に心当たりがないので、落ち着いたら梶さんに 尋ねようと思っていたそうです」 「そうですか。 それなのに当の本人が現れたので和江さんは驚いたでしょう」 「ああいう顔を、鳩が豆鉄砲を食らったような、というのでしょうか」 僕はおかしくて噴出してしまった。 「鳩が豆鉄砲食らった、ですか。それで中には何が入っていたのですか」と聞いたら 「何が入っているか判りませんが、梶さんと一緒に開けようと思ってそのまま持って来ましたよ」と包みを差し出した。 僕達は森本が下げてきた母親の手料理を久江の前にも供えてやり、後はテーブルに載せた。 夜もかなり更けてきたが明日は休みという気安さからその夜も徹夜で飲み明かすつもりだった。 ていねいに包まれた箱は深さ5cmくらいで縦30cm、横50cmくらいであった。 僕は何が出てくるのかとドキドキしていた。 森本はていねいに箱を開けた。 蓋を取ると大学ノートが2冊と手紙が数通、そして枯葉色のマフラーが出てきた。 手紙は全部、森本宛で切手まで貼ってあった。 ほとんどこの一年の間に書かれたものであった。 僕達は手紙から読み始めたが、内容が良く理解できなかった。 それでノートを読む事にした。 ノートの書き出しは「これは一体何だろう」という言葉で始まっていた。 読み進んでいくうちに記憶喪失のフラッシュバックについて書かれてある事が判った。 そして、あるページに、「このシーンは高校時代、美術の教師から付きまとわれ、何度呼び出したら美術室へ来るんだ、と言われ、 出掛けた時のもので、その教師の言いなりにならない事には、森本がいなくなるぞ。誰かに言ったら森本はすぐいなくなるぞ。 森本から声を掛けられて返事をしても許さない、と脅迫された時のものだ。 もう、すんでのところで逃げ出したが良ちゃんがいつ殺されるのかと思うと恐ろしくてたまらなかった」と書かれていて、 美術室の見取り図にその教師と久江の位置関係がスケッチ風に描かれてあった。 「その後も度々呼び出されたが拒み続け、学校にも行けなくなってしまった」と続いていた。 「悩んだ揚句、他人に言ったらダメなんだから、本人にだったらいいだろうと考えて、良ちゃんの家へ行ったが、その時お母さんが 良ちゃんの後ろで怖い顔をして睨んだので言えないまま帰ってしまった。その後は良ちゃんから逃げるしかなかった。 学校ではいつも誰かに見られていて、美術の教師に告げ口されるようで怖くて声もかけられなかった」と書かれてあった。 その他、結婚して一年余りした頃、和江が生まれて少しした頃、記憶を全部失くしてしまった。 原因は夫から森本との仲を疑われ続け、ある日暴力を受け、突然意識障害を起こしてしまった。 数日後、意識を取り戻した時には森本の事は記憶から消え去ってしまっていた。子供の事も自分の名前も、言葉すら失くしていた。 と書かれてあった。 記憶をなくしたままの15年近くの人生、そして離婚。鬱病。 ところが良くなりかけた2年前、川田通子から森本の事で執拗なひどい罵りを受け、自分にはまったく覚えがないので 「そんな人知らない」と言うと「モッツンを知らないなんて、あなた、頭が変なの」となじられ 「随分かばって貰っていたくせに。私がモッツンと仲良くしていたら嫉妬して仲を引き裂くようにして、私からモッツンを奪ったくせに。トボケナイデヨ」 と言われてそこから記憶が蘇り始めた。 と書かれてあった。 記憶の蘇るキーワードは「モッツン」というニックネームだった、と記されていた。 僕達は酒を飲むどころではなくなり、ノートに夢中になった。 一冊は2年前から始まり、ほとんどフラッシュバックについての内容と、その時の身体的な苦痛状態、そして心理状態であった。 フラッシュバックを起こすとその時代の年齢にまで戻る、と記されてあり、実年齢とのギャップの苦しさが克明に書かれてあった。 身体的苦痛もさることながら、「もう、死にたい」「まだ、狂いもせず生きている」という言葉が全体を通して何度も出てきた。 終章へ ジャンル別一覧
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